連載 No.42 2016年11月06日掲載

 

それぞれに違う色の感じ方


高知の紅葉は少し遅れ気味だそうだが、関東では見頃の所もぼちぼち増えてきた。

色鮮やかな山並みは魅力的で、日光など景勝地へ向かう渋滞のニュースを耳にするようになった。

そうした場所ではカメラを構える人も多く、名所でのカメラ渋滞なんていう話もある。



カラーフィルムが普及する前の話だが、モノクロフィルムで記念写真を撮っていた時代、

写っている人の服装を見なければ新緑なのか紅葉なのか分かりづらいものもあった。

紅葉などの鮮やかな色彩も単純な明暗にしか記録できないモノクロフィルム。

身近な食べ物や植物などの色はどのように置き換えられているのだろうか



そんな疑問を感じつつ、緑のトマトと赤いトマトを普通のモノクロフィルムで実際に撮影してみると、

同じ明るさのグレーに仕上がり、元の色との区別がつかないことに驚かされた。



フィルムのように、人間の感覚とかけ離れた素材で芸術的な表現は難しいと考えている人もいるだろうが、

すべての色を均等に記録する特性は色覚の個人差や民族性を超えた表現に優れた可能性を与えてくれる。

ここで重要なのは、その画像特性をそのまま使用するのではなく、

自分の色覚や感覚に基づいて調整しなければならないことだろう。



先ほどのトマトを黒一色の鉛筆だけでスケッチする場合を考えてもらいたい。

描く人の色や光の受け止め方、

どちらを明るく表現するかはまちまちで、十人十色の仕上がりがあるだろう。

機械的に振り当てられるモノクロフィルムの諧調も、

作者の感覚的な再現に近づけて技術や工夫で変えることができる。



赤と緑のトマトの場合なら、撮影するときのフィルターが効果的だ。

レンズに赤い色のフィルターをかけて撮影すれば、赤いトマトは明るく写り、緑は暗くなる。

緑のフィルターを使用すればまったく逆の明暗が得られる。

どちらが正しい表現ということはなくて、

その間を自由に行き来して自分の感性にあったものを探せばよい。



この「どちらが正しい表現ということはない」というのが、

モノクロームで作品を作る理由(芸術としての優位性)のひとつかもしれない。

カラー作品の場合、個人的な感覚に基づいて仕上げると客観的な情報と安易に比較され、

やっと見つけた自分の色なのに「この色おかしいんじゃない」と、いわれることもあるだろう。



そう言う意味においてモノクロームならば、目の前の現実からも、

他の作品からも影響されない自由な表現といえる。

そして緻密にコントロールされた白から黒の諧調には、

作者の個性や意図を超えて直感的に人を納得させる力がある。